ESSAY
雨の日エッセイ(8)

BY キオ・H・スワン

龍を飲む

 「どうしたのよ、こんなに腫れて」
 背中からゆりさんの声がした。
 体重が、かかった。
 ぐふっ。
 わたしは、思わず声にならない息をもらした。

 「痛いの?」
 くぐもってはいたが優しい響きがあった。
左の肩と二の腕である。
 1ヶ月ほど前から痛みがあった。
 「五〇肩よ」と、わたしのおんなどもは揃って口にした。
 悪さばかりしているから、ばちがあたったの。
 天罰よ。
 お天道様は、すべてお見通しなの。

 1年前、右肩があがらなくなった。
 すぐに整形外科に行った。
 美宝堂専務の紹介の医師だった。
 なんでもアイススケートの女子フィギアの女王になった選手の疲労骨折を発見し、治療に当たったとされる名医である。
 検査の結果、肩の腱の1本が切れかかっている。
 そんな診断を受けた。
 「ここで無理をすると、腱が切れる。切れたら肩を切開して、切断した腱の縫合手術をしなくてはならない。決して甘く考えないように…」
 そう言い含められたが、その「五〇肩」も昨年くれには、知らぬ間に治っていた。
 日にち薬、という言葉がある。
 多分、その成果が出たに違いない。

 ところが、今度は反対の左肩だ。

 上半身裸になって、わたしはベッドに腹這いになった。
 ゆりさんは、そのわたしの裸の背中に掌を這わせる。
 「ここ?」
 指先を強く押しあてた。

 ぐっ。

 わたしは悲鳴をこらえる。本当に痛いのだ。
 涙がこぼれ落ちた。
 「すっごく腫れてるのよ。いったい、どうしたの」
 
 わたしの欲情した精が肩と腕に流れ込み、膨れ上がったのです。
 これが陰茎ならば勃起といいますが、腕の場合はなんと呼べばいいのでしょうか。
 「優しくさすれば、気持ちがいいって、か」
 ゆりさんは冷たく言い放った。「バカじゃないの」

 そう。
 わたしは、バカです。
 発情したことを惚れた女に見透かされ、そうして軽蔑される屈辱に耐えて…。

 易経ではひとの人生を龍にたとえて六変化を説明している。
 水底に潜む龍を潜龍と呼ぶ。
 それが水面に浮いてくると見龍になる。
 男の思いも、龍である。
 まず胸の奥底に沈めておく。
 出会ってすぐに「この女が好きだ」と直感しても、口には出さない。態度にも現さない。
 とにかく、秘める。
 秘めたる恋である。

 その次ぎの出会いが勝負である。
 翌日であれ一年ののちであれ、次の対面で底に沈んでいた気持ちが本物かどうかが検証できる。
 あ、わたしの抱いている気持ちは本物だ。
 そう確信したら、わたしは口に出す。
 口に出し、態度で示せば、龍は見龍から、水田へと姿を現して、そうして躍動する龍となる。君子終日乾乾するという龍が見龍と躍龍の間に存在するが、説明が面倒なので、飛ばす。
 とにかく躍龍となり、天空へと羽ばたかんとする状態。これが恋に情熱の嵐が吹き付ける時期である。

 事実、わたしはかなさんに、告白した。
 オレと、つきあえよ…。
 「えっ、わたし、そんなこと云われたの、はじめてなのよ…」
 
 しかし、わたしはゆりさんにはこんな言葉を発することが出来なかった。理由はいろいろあるだろう。
 どんな理由があったにせよ、口にしなかった。
 と、わたしの胸の水底に潜んでいた欲望の龍は、どうしたか。
 行き場を失い、胸から肩へと抜け出たのだ。肩に入りきらなければ、次は腕に行く。
 そう。
 わたしの龍は腕に入り込み、ここで激しく勃起した。
 この固くなってしまった龍を開放するにはゆりさんの優しい愛撫しか効果的な処方はない。
 
 できません、そんなこと。

 ゆりさんの答えはわかっている。
 そうして、わたしの思いを伝えてしまったかなさんは「わたしが、なんとか、してあげるは」とメールを返してきた。

 わたしの龍の、少なくとも一匹はかなさんに思いを伝えて見龍になった。
 これはこれでよろしい。
 ところが、わたしの心は双ごころだったのか、もう一匹の龍が肩から腕へと突き進み、そこで怒りの膨張を試みたのだ。
 
 暴れ龍は、なにもわたしでなくたって、だれであってもあなたのことを好いてくれているなら、どのようにもなだめることができるんだから、だから、わたしのことは放っておいてください。
 ゆりさんは、そんな思いをこめてわたしの裸の脚を大きくさすってくれた。指先が腿の付け根まで流れてくる。
 「ねえ、あなた、どうなの、気持ちいいっ?」
 ゆりさんの長い髪がわたしの脹ら脛にこぼれ落ち、ゆらゆらとうごめいた…。

 わたしは心地よさからこみ上げてくる快感と睡魔に襲われて、瞼が重くなる。
 そうして、わたしの意識は遠退いていく。

 緩やかな射精…。

 わたしはいまだかって経験したことのない、甘く切ない快楽の深遠に向かって堕ちていく自分が、とてもいとおしくなってきた。