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『蜘蛛女のキッス』
 

『蜘蛛女のキッス』 
 ーー平和公園蜘蛛の網探索同行記 

7月12日、名古屋の気温は35度を超した…。 
その日、平和公園では「蜘蛛の網」探検隊が 
クモと、その網を求めて散策した。 
INAXギャラリー名古屋が呼びかけた催しである。 
その同行取材記が、これだ。 
●印が、ルポの部分。 
後半の○の部分がフィクションの部分。 
ひとつで二つの読み方ができる 
画期的な「読み物」だと、 
ライターは自画自賛!? 



【蜘蛛女のキッス】
平和公園「クモの網観察会」同行取材


●出発前


 「ええっ、蜘蛛を見に行くの!?」
 わたしが同行を誘った女性は、こんな反応をした。
 ここで云う女性とは家内かもしれない、娘かもしれない。
 あるいは愛人、恋人、女友達あるいは会社の女性スタッフであっても、一向に構わない。とにかく、わたしが誘った女性は、即座に断った。このことに間違いはない。
 蜘蛛は、嫌い。
 気持ち悪い。
 かまれたら、死ぬ…などと本気で信じているものもいる。
 …バカな。


●当日

 7月12日、土曜日。
 全国的に猛暑となり、最高気温は名古屋市内で35度を超した。 この日、わたしは、ひとりで集合場所の地下鉄東山公園2番出口に向かった。
 集合時間は午前10時。
 
 30分前に東山公園駅に到着した。
 改札を出たところでINAXギャラリーのスタッフが「クモの網観察会」と書かれた紙切れを持って立っていた。
 
 昼食は各自持参。
 観察会のメモには、こう記されていた。
 わたしは改札口に立っていたスタッフにコンビニ場所を訪ねた。 
 コンビニでペットボトルのお茶を2本、おにぎりは梅と鮭を1個ずつ買った。ポケットには出かけに持たされたガムがある。甘いものはこのガムだけだ。
 観察会を仕切っているのはINAXギャラリーの大島さん。ギャラリーからは改札口にいた女性を含めて3人が参加していた。
 その他はいわゆる講師の先生方。
 クモの網の採集の第一人者の女性は、現地で実際に採取を見せてくれるという。
 

●平和公園

 5つのグループに分かれて、進む。各グループ事に蜘蛛研究会だか蜘蛛懇談会だかのメンバーが付き、説明し案内してくれる。
 中年の夫婦、子供連れの親が中心で、参加者は20人を超えていた。だから総勢35人ぐらいになっただろうか。

 平和公園には多くのクモが生息しているらしい。
 20科61種類が記録されているという。
 日本全国には1200から1300種類のクモがいる。
 全体から見れば少ないかもしれないが、林、草原、水辺など様々な環境が揃っているから、これだけの種類のクモがいるらしいのだ。 
 「基本的に蜘蛛に噛まれても、いたいだけです。ちくっとする程度で、命に別状はありません。セアカゴケグモという外来種の蜘蛛は毒性を有しておりますが、平和公園にはまだいたという報告がなされておりません」
 懇談会のメンバーのひとりが説明する。
 ギャラリーのスタッフが袋を取り出して「ここにフイルムケースがあります。これに採集できますので、必要な方は必要なだけ持っていって下さい」

 わたしは当初、小型のメモ帖で取っていたが、途中から、参考資料としていただいた蜘蛛の写真が印刷された紙の裏をメモとして使用した。このほうが持ち運びに楽だったのだ。

 なにしろ背中には息子から借りたナップサックがあり、その肩紐が辛い。
 左腕が五十肩で傷んでいるから、辛いのだ。それにニコンのF4のフイルムカメラを担いでいるから、これも重い。
 頭には麦藁のチロリアンハット(みたいな形をしたものだが…)まぶしいのでレイバンのサングラス。
 足下はアウトドア用の堅めのシューズ。
 軍手は持参したけど使わずじまいとなった。


●メモの書き出し

 わたしのメモにはこう書かれている。

 《七月十二日/東山公園二番出口
  猛暑の予報。三十四度くらいになりそう。
  参加者全員がほとんど帽子をかぶっている
  担当の女性に名前を告げる…》

 かくして10時10分、われわれはスタートした。
 大きな紙のメモには、こんな書き出しである。

 【最後の母親と二人の子供が到着!】

 参加者のうち、ひとりだけが到着していなかった。
 集合時間を少し回ったが、多分連絡が入っていたのか、スタッフは慌てた様子がなかった。
 そうして、参加者名簿に名前が書かれたメンバーの最後にチェックマークがうたれた…。

 大きな網を持った講師のひとりが、歩きながら道路脇の低木を揺すり、落ちてくる小虫やハッパを受けとめている。
 「お、カニグモ!」
 ホラホラ見てご覧、これがカニグモだよと、観察会に参加している子供に見せた。

 オーッ

 この歓声は本当の驚きなのか、大人のための思いやりの叫びなのか、わたしはに判断つきかねた。
 もう一人の講師は、透明のビニル傘を逆さにして、その上に小虫を落として集めている。


●最初の休憩

 10時30分
 最初の休憩。
 ここで綱曳和代さんが参加者に紹介される。
 いまINAXギャラリーで開催されている「クモの網」展の制作者である。
 講師は中部蜘蛛懇談会の村上さん、杉山さん、柴田さん、須賀さん、緒方さんの6名。(名前の文字が違っていたらごめんなさい)
 ここでフイルムケースを渡されたのだが、すでに確保したクモの中に珍しいものがあった。

 「シロスジカニグモ」

 愛知県では5例目という珍しいもので、南方系蜘蛛の種類だ。

 最初は各グループの間隔はほとんどなかった。団子状態で細い低木の中を歩く。

 「コガネグモだ!」
「違う、これはジョロウグモだよ」
 そんな声が飛び交っている。

 チュ、チュッ、チュッ…と小鳥が鳴いている
 「あ、メジロが鳴いている」
 チュ、チュ…

 「みなさーん、網曳さんが蜘蛛の網の標本採りをしまーす」
スタッフの女性が大きな声で参加者に呼びかける。

 ゴミグモの巣である。
 まず、巣をつついてクモを網から追い出す。
 そうしておいて、クモの網に白いラッカースプレーを吹きかける。 と、透明だったクモの網形がはっきりと姿を表してくる。
 背後から、あらかじめ表面に洗濯糊を塗布した青色の画用紙をあて、クモの網を取り込む。余分な糸はピンセットで切り捨てる。
 これを天日で乾かして、最後に透明ラッカーをスプレーして完成だ。

 先頭グループの講師はクモの採取には気がないようで、道々、クモの巣を見つけると立ち止まり、指さし、解説する。
 「これがね、上に迷彩の網、下に棚網…クサグモです。それから、この下の棚に居候するクモもいるんですよ」

 「あ、これ! コガネグモです。金色の網を張るんです」

 講師が引率者を前に網の中央にいるジョロウグモを指で示しながら説明した。「クモは巣を張ると下向きになって待機します。だいたい日本には1200種類のクモが下りますが、上を向いているのはそのうちの2種類くらいです」


●トンボ池

 小道が二手に分かれていた。
 二手というよりは、真っ直ぐ進む道と、右に折れる小道の2本だ。 「あ、ここを曲がるんだ。真っ直ぐ行くとずっと遠くまで行ってしまう」と講師が叫んでいた。「その道を右に行って下さい!」

 云われるままに道を折れると、道幅が一気に狭くなる。30pくらいだ。そうして、ところどころぬかるんでいる。
 
 そのときは気づかなかったが、右手には蒲が密生していた。
 その蒲の穂にはシオカラトンボやアカトンボが羽を休めていたりした。さすがはトンボ池と命名されただけのことはある。
 「先生、どうして池が赤いのですか」と参加者の女性が講師に尋ねていた。なるほど池の水は全て赤く見える。濁っているわけではないから、これは水のせいではなく、土に原因があるのであろう。
 「泥の色でしょ。土が赤土なんですよ」と講師も応えていた。

 わたしは先頭グループに同行していた。
 振り返ると後続のグループの姿が見えない。
 わたしはトンボ池の観察や、蒲の写真撮影を行った。池にはアカメダカの姿や、小降りのオタマジャクシが見つけられた。

 「これが、マネキグモです」と講師が説明していた。
 若い女性が小型のデジタルカメラを向けている。
 「近すぎて写らないかもしれませんよ」
 「暗いからピントが合わないでしょ」 
 という助言が講師やメンバーから飛ぶ。
 「ホントですね。写せませんね」
 わたしと同年代の夫人が叫んでいた。
 「えーっ、これ、クモなの!」
 「クモに見えないでしょ」
 「仕種が面白いですね。なんだか蓑虫みたい」
 「これは、面白い」
 参加者は口々にいろんな感想を口にした。
 細いクサでクモをつつくと、奇妙な動きをする。とてもクモとは思えない。尺取り虫、というか、クモと云うよりは青虫系の動きを見せるのだ。
 このときもデジカメではうまく写すことができなかったようだ。「背景が暗いから、ね…」

 背後からスタッフの女性が駈けてきた。そうして叫んでいる。スタッフも大変だ。走って、叫ぶ…。
 「網曳先生がジョロウグモの巣の採取を行いまーす」

 
●再び「クモの網」を採取

 ジョロウグモの網の採取である。
2回目ということもあり、今度は見物する人の数も随分と少なかった。グループの列が点々と散会したことも影響していたと思う。 わたしもまた比較的楽に手順を見ることができたのだが、最初のホワイトのラッカースプレーが風に乗り、自分の鼻先に舞い込んで来たのには往生した。
 臭い。
 しかも、白く粉ぶいたような顔になってしまう…。

 網曳さんの手際も先ほどよりは素早かった。
 背後に蝟集する観察人が少なく、また、口も手も出すガキ(失礼!)の数もそれほど気にならない程度に少なかったからだ。
 できあがったコレクションをすぐ横からのぞき込んでいた少年に手渡し「はい。これ、あげる」
 わおーっ。
 わたしは、思わず叫んでしまった。もちろん胸の奥だけだ。
 ホントに叫んでいたら「なんと大人げない」ときれいなスタッフだけでなく参加者からもブーイングを受けたに違いない。

 ひまわりが植えられ、かつては誰かが無断でこの地に進入し、畑を耕し、野菜を作っていた痕跡もある。
 参加者のひとりがわたしに寄り添い耳元で囁いた。
 「ここは五輪誘致の際に、メイン会場とする予定地だったらしい。だから、そっくり残されたんだよね」
 真偽のほどはわからないが、結構広大な里山がこんな街の真ん中あたりに残っていること自体が不思議である。
 平和公園とは墓場の団地とのイメージがあるが、平和は死者の隊列の上に築かれた庭園と云えるかもしれない。


●昼食

 暑かった。
 後から知ったのだが、この日は全国的に猛暑の真夏日。
 名古屋市内でも最高気温が35度を超していた。

 わたしは「伊右衛門」をあっという間に空にしていた。
 Tシャツは汗でぐっしょり濡れている。気温が高いから、その汗が冷たくならない。体温と気温で保温された暖かな水分がどんどん蒸発し、アンモニア臭を残した粘液質な汗の名残となってわたしの背中に腹に胸にへばりつく。

 出発地点に戻ったとき、わたしはシャツを着替えようかと考えた。ついでにストレッチ生地のGAPの黒の半袖も、ユニクロの柄シャツに着替えよう。
 わたしは逡巡して、そうして、やめた。

 食事となった。
 残りの伊右衛門でおにぎり2個を喉から流し込んで、そうしてガムを噛んだ。


●報告

 ランチが終わった頃、ある男が、もちろん参加者である。
 ガラス製の瓶。これにコルクの栓が付いた捕虫瓶を3つ持ってきた。わたしにではない。
 わたしのすぐ目の前で幕の内弁当を食べていた講師のひとりである。多分彼の担当の講師だったのであろう。
 彼は3本の捕虫瓶を示し、これ、何でしょうか、と訪ねたのだ。

 わたしはとても興味が引かれた。
 なに、その瓶の中に入っているクモにではない。
 その瓶である。
 ここまで凝った瓶を所持して参加したというのは、クモ好きなのか、あるいは虫取り名人なのか…。

 講師はクモ図鑑と見比べながら、ウンウンと唸っていた。
 「子グモは判別が難しい」
 なるほど、それはそうだ。
 そのうち、近くに別の講師がやってきたので、その講師は瓶のうちの1本を手渡し「ねえ、××先生、これ、なんだと思います」
 と、受け取った講師が叫んだ。
 
 スッゴイ!!

 「ね、すごいでしょ」と手渡した講師が破顔した。
 「ムツトゲイセキグモ」
 と、宣言した。
 と、講師達が集まってきた。
 へえー、どれどれ…。
 「これは非常に珍しいクモです。愛知県で見つかった例としては2例目」と講師が大声で宣言した。それにつられて食事を終えた参加者達が集まってきた。
 「いやいや、…でも発見されているから4例目だ」
 「それにしても珍しいクモです。今日、この観察会に参加された人はきっと幸せになります」


○妄想

 ひとびとは順繰りにガラス瓶を手に取り、中にうずくまっている小さな子グモを見ては次々に、手渡している。
 わたしもその群に参加した。
 が、なかなかわたしのほうにその瓶が流れてこない。
 あっ…。

 誰かひとりが声をあげた。
 瓶が指先からつるりと滑り出して宙に浮いた。人々が我先に腕を伸ばして広げた掌を天に向ける。
 わたしも思わず猿尾(えんび。びの文字がないので、とりあえずこう書いた。猿の肘のいみである。長い腕と解釈すればいいだろう)を伸ばした。
 真昼の太陽光線を跳ね返して、瓶がクルクルと2回転した。
 そうしてわたしの掌に載った。
 載って、そうして跳ね上がった。
 クルクルクルと三回回ってわたしの頭上に跳び、そうして落下した。
 あっ。
 人々は、もう一度小さな声をあげた。
 瓶は、落下した。そうしてわたしの顔に当たった。あたって弾んで、そうしてある掌に落ち着いた。
 瓶の持ち主の掌だった。
 孫悟空がお釈迦様の掌に乗る。
 そんな図柄が思い浮かんだ。

 「大丈夫でしたか」と背後から優しい声がした。
 はい。大丈夫です。

 「口にあたったようですから、口の中、切ったりしていませんか」
 わたしは口の中をゆっくりと舌を這わせた。
 痛みはない。
 血の味もしない。
 ただ、唇に少しだけ違和感があった。
 腫れている。
 そんな気がした。

 それにしても、ひともクモも無事でなによりでした。

 わたしはINAXギャラリーの大島さんに名刺を手渡して、今日の同行取材のお礼を述べた。
 暑い一日だった。
 シャツもパンツも汗にまみれていた。


○大団円/空想の流動遊木

 くらっ。
 目の前の風景が揺れた。

 陽炎…。
 とにかくわたしは地下鉄乗り場へと急いだ。
 地上の暑さから逃れたかったのだ。

 あのオジサンの腕に虫が付いているよ。
 そんなこと、云うもんじゃありません。

 地下鉄の車内で微睡んでいるとそんな母子の声が聞こえてきた。 腕についているとしたら、それは多分クモでしょう。
 わたしは知らず知らず唇を舐めていた。
 少し腫れている。腫れた部分に舌を這わせると、それがもぞもぞと動いたような気がした。

 「お母さん、あれ見て見て。あのオジサンの唇。ほら、なんか黒いものがいるでしょ。動いているからさ…」

 ば、ばかな。
 クモがわたしの唇を這ってるのなら、わたしだって気づく。
 
 わたしは慌てて指先を唇に持っていった。
指が奇妙にうねりだした。
 そうして食いしばった歯と歯の間にこじいり、舌を引っぱり出そうとするではないか。
 ならば、わたしはこの指をかみ切るしかない。
 諦めてわたしは思い切り指を噛んだ。

 イテーッ!

 「なにしてるのさ!」
 と、おんなの声だった。
 ど、どうしてここにおんながいるのだ…。
 しかも彼女は半裸である。わたしは、といえば、やはりトランクスだけだった。

 わたしは、ようやく気づいた。
 わたしはベッドで眠っていたことになる…。
 クモの網観察会から戻ったわたしは、シャワーを浴びて汗くさい身体を清め、そのあと昏々と睡魔との闘いに敗北し、惰眠をむさぼっていたに違いない。
 そうして、わたしの枕元には小さな肉のカケラが落ちていた。
 そうしてわたしの指先はぬるぬると温かい。

 当然、唇は真っ赤に染まっているだろう。
 そう、蜘蛛女から祝福のキスをされたのだから…。